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自分史 27 看護学校の授業と実習
  
   雪に覆われた我が家の庭ーはやく花壇作りたいなあ

  看護学校の教科は今でもそうだと思いますが、なんと60教科近くありました。
整形外科学 整形外科看護学 耳鼻科 耳鼻科看護学 などと一通りの医学にそれぞれ看護学があるのです。
医学に関しては東大医学部の講師が来て講義をしてくれました。
講師料をいくら貰っていたのか知りませんが、なんか片手間にきているという姿勢の先生方ばかりでした。
ひどい先生は授業の開始時間をいつも大幅に遅れてきてものの20分も授業しないで終わる方もいました。

しかし、懐かしく思い出す先生もいます。
生理学の講師の先生は当時としては珍しく女の先生でした。
多分50才を過ぎていたかもしれません。独身で化粧っけのない地味な先生でした。
熱心に授業をして、女性の自立した生き方についても話をしてくださいました。
夏になると大きな桃を自分の故郷から取り寄せて生徒ひとりひとりに一個づづプレゼントしてくれました。
先生にお礼を言いながらなぜか先生の前で教室で食べました。
「美味しいでしょう」と先生は私たちが食べているのを満足そうにニコニコして見ていました。
冷たく冷やされていた白桃でした。私は桃はこんなに美味しいのだと始めて知りました。
でも今考えてみると何故あの先生は私たちにそのようなプレゼントをしたのでしょうか?
当時は授業料寮費とも無料の看護学校に行くのは貧乏な家庭の女子が多かったのです。
同級生のほとんどか地方出身でした。東京在住の同級生は二三人しかいませんでした。
貧乏人の子供は桃など食べたことがないのではとの施しのようなプレゼントだったのかも。
でも嬉しかったです。

看護学のほうは看護師の資格と経験をもった教務の先生方はじめ現場の婦長さんたちが担っていました。
こちらのほうは熱心できびしく指導を受けました。
二年生の後期になるともう実習が始まりました。当時はとにかく実習時間が多く夏休みなどはほんの三週間くらいしかありきせんでした。

後に三年生になってから全国の看護学校の学生たちで看護学生連盟を結成するのですが、そのスローガンの中に「現場労働の補充をさせられる実習時間を削減し休暇を大学生並に」と掲げています。
ハハハー。
現場の看護師になってみると、看護学生の実習なんて現場労働力の補充なんてとんでもない。
学生が実習に来ると指導に時間がとられ仕事が大幅に遅れたものです。

私も実習にいくと失敗ばかりして現場看護師から叱られてばかりいました。
いちどなど筋肉注射の実習があり10人くらいを任されました。
意気揚々と終了して看護師に報告しました。
「えっ」看護師が真っ青になっています。
なんとみると溶解液だけの筋肉注射をしていました。ちゃんと指導を受けていたのになぜか溶かすはずの粉の抗生物質の瓶がそのまま残っているのでした。
「悪いけどもう帰ってくれる。後は私がするから」といって帰されました。
二度も筋肉注射をさせられた患者さんたちに本当にすまなかったと赤面です。

解剖の実習もありました。
医学生は実際に解剖をするのですが、看護師は解剖をしているところを見学するのです。
東大医学部の地下室に大きなプールのような水槽がありそこにアルコール漬けになった何人もの献体がプカプカ浮いていました。それはとても私には恐ろしい風景に思えて正視できませんでした。
私が見学した解剖の献体は肺がんでなくなった高齢の男性でした。
肺の八割ちかくが癌におかされていてほとんど正常な肺組織がありません。
人間はこんな状態になるまで生きているのだと衝撃を受けたのを覚えています。





| 今村 洋子 | 自分史 | 20:40 | comments(6) | trackbacks(0) |
自分史 26 看護学校の寮生活
  志賀高原
                 渋峠スキー場

  看護学校の寮は三学年150人近い学生が木造二階建ての和室の粗末な寮での共同生活です。
一部屋10畳くらいあったかな。四隅に座り机を置き本棚で囲いをしてそれぞれが自分の場所を陣取りして生活します。
お部屋は三年、二年、一年生で構成され、学校の教務が部屋を決めてくれます。
ですから当然三年生がお部屋の主となり仕切りをしてくれました。
大人しい三年生だとお部屋の皆が大人しく、賑やかで派手好きの三年生だと皆右へ習えということになるのです。
半年毎に部屋変えがあり誰と一緒の部屋になるかは大問題でした。
こんな寮生活になじめないのか、あるいは看護師になるのが自信なくなったのか半年くらいで退学する人が何人か出できました。
私は良い同室者に恵まれて楽しく寮生活を送ることができました。

食事は病院の患者さんと同じ食事が病院の調理場から運ばれてきます。
食器がなんとアルミでした。まるで監獄の食事みたいでした。
調理場から運ばれてくる間に冷たくなったご飯。しかも無造作に盛り付けてあるのでしゃもじの跡がついていました。
美味しいと思って食べた覚えがありません。

当時インスタントラーメンが出始めていました。お小遣いで買って夜遅く食堂で作って仲良しの同級生とたべました。美味しかったなあー。
ちなみに私のお小遣いは月3000円で母が毎月送ってくれました。
ほとんどが食料と身のまわりの日用品の補充に消えました。
てもまあー考えてみると月3000円だけで一生食っていける資格を得ることができたのですからなんとありがたかったことか。

寮には二人の寮母さんがいました。彼女たちが私たち生活の世話をしてくれるのです。
寮の玄関のすぐ横に彼女たちの部屋があり私たちが玄関を出たり入ったりするのを目を光らせて監視していました。
おばあさんのような気がしていましたが今考えるとまだせいぜい50代の女性だったと思います。ふたりともいつも何か怒っていました。
自分たちの思うように寮生が振舞ってくれなかったのでしょう。
もちろん私も何やかやと叱られました。
電話が玄関に一台あって電話がかかってくると寮母さんが放送して呼んでくれます。

今村は私と付きあうようになってから、学校の授業が終わって寮に帰ってきたところを毎日のように電話をかけてきました。
「石塚さんー電話です。至急玄関まで来てください」
ヒステリックな大きな声が寮中に響き渡りました。
もうー恥ずかしくて恥ずかしくて。でも嬉しくて飛ぶように玄関に駆けつけ今村の電話に跳び付きました。

三年生になると門限を破って夜遅くまで遊び歩くようになりました。朝眠たくて起きれません。
学校をサボって寮で寝ていると教務が探しにきます。
廊下の足音を聞いてあわててスリッパを隠し、自分は押入れに入って隠れてやり過ごしたこともありました。ハハハー。

しかし、この三年間の寮生活は同じ釜のめしを食べた同級生や先輩後輩として普通の学生生活では得られない貴重なつながりと学びを得ることができたと思います。




| 今村 洋子 | 自分史 | 16:25 | comments(2) | trackbacks(0) |
自分史 25  数学だけの実力で東大医学部付属看護学校へ入学
  
         浜石岳から撮影した富士山

  高校卒業を迎え進路の選択をすることになりました。
私の中にまだK君への思いが残っていました。とにかく東京へ行きたかったのです。もしか逢るかもしれないと思っていました。
しかし、まだまだ貧乏だった我が家。大学進学はとても無理なことは分かっていました。
教師か看護師の資格を取りたいと思っていましたが選択は学費が無料だった看護学校しかありませんでした。
なにせ読書ばかりしていて学力は付いていないのに東京のいくつかの看護学校を受験しています。
その中に何故「東京大学医学部付属看護学校」が入ったのか未だに不思議なのです。
だめもとでという気持ちで受けたのかもしれません。
他の看護学校が全部不合格なのに東大看護学校だけか受かったのです。

それはまことに運が良かったのです。
なんとその時の東大看護学校の入学試験の数学の問題が文章の応用問題が二問だけだったのです。
二問出来た人と一問だけの人で合格不合格が決まったようです。
同じ高校で一緒に受けた人が一人いました。彼女は数学が一問しかできなかったと嘆いているのをを聞いています。もちろん彼女は不合格でした。
私よりづっと成績の良い人だったのです。
数学だけが得意だった私はもちろん二問とも出来ました。私にとってまことにラッキーな受験だったのです。

実力のない私が東大看護学校の授業についていくのにとても苦労したことはいうまでもありません。しかし、私の人生の方向を決定した入学だったのです。
この学生の三年間の間に安保闘争があり、その闘士であった東大文学部の学生だった今村彰に出会い、結婚し、彼の高校教師としての赴任先の長野県飯田市に移り住み、今の私の現在があるのですから。
もし、私が東大看護学校に入学していなかったらどんな人生を送っていたのかと時々思うときがあります。人生の偶然の不思議を思うのです。

さて、東大看護学校はあの有名な夏目漱石に小説に出てくる「三四郎の池」のある文京区本郷の本校〔教養部の学生は駒場の分校〕構内の隅っこにありました。
この本郷の構内はとても広く、緑に覆われていて静かで東京の中のオアシスのようなところでした。
夏目漱石や色々な有名人が散歩したり、物を考えたりしたのだろうと思いながら私たち学生は自分の庭のように自由に散策を楽んだものです。

当時は全員が寮に入ることを義務づけられていました。
それは多分有事の時に学生を動員するためだったのではないかと思います。
寮は学校のすぐ前にありました。
この寮生活はとても貴重な経験でした。

| 今村 洋子 | 自分史 | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分史 24 読書に明け暮れた3年間の高校生活

    

 昭和35年4月に水戸第二高校に入学しました。
高校は水戸駅から歩いて10分のところにあり、その近くには県庁もあります。
いわば水戸市の中心地に高校がありました。
叔母の家は水戸市の郊外にありました。
私は40分ちかくかかって自転車で高校まで通いました。
水戸の中心地のメイン通りを自転車で駆け抜けました。当時はまだ車も少なくアップダウンもない道路なので快適に自転車を飛ばしました。制服はセーラー服です。箱ひだスカートをひらひらさせながら通いました。

叔母の家から通ったのはほんの二週間程度です。叔母の連れ合いは茨城大学の化学の教授でした。大学の官舎住まいでしたが二間しかない小さな家に先妻の子供三人と叔母の子供二人が住んでいる中でお世話になったのです。
叔母は毎日お弁当を作って持たせてくれました。たっぷりの白米ご飯におかずは秋刀魚の塩焼きが一匹などと私にとってはとても豪勢なお弁当で寂しい高校生活のスタートにただお弁当の時間だけが楽しみでした。

私たち一家は叔母の家の近くに古い一軒家を借りて住むことになりました。
その家は戦後緊急に建てられた引揚者用の住宅でまたまた東京のバラック住宅とそんなに変わりなく冬は雪が部屋に降りこんでくるような粗末な家でした。でもおお風呂があり玄関と二部屋あって庭もありまあまあ人並みの生活がはじまりました。
庭の隅にイチジクの木が一本あって熟れたイチジクを弟たちと奪い合って食べたことを思い出します。

父の給料はとても一家五人を養うにはほど遠いものでした。私は両親の進めで奨学金の申請をしました。
当時月1500円の奨学金がいただけました。
書類を担任に提出した時です。担任が私の顔をまじまじと見て「お父さんのこんな給料でよく一家五人が食べていけるなあー」とおっしゃるのです。
父の給料は15000円でした。私は担任のその言葉にとても傷つきました。
でも奨学金はいただけるようになり学費や生活費の足しになったのです。
しかし、私は小遣いを貰った覚えがありません。生活はそれほど大変だったようです。

私の中学からの友人ひとりもいない活気のない高校生活を助けてくれたのは読書でした。
図書館で世界文学全集をかりてひたすら読書に明け暮れました。
読書の魅力で少しも寂しいと思ったことはありません。
読みはじめたらいっきに最後まで読みたいものです。
授業中に机の下に本を置いてこっそり読んだりしていました。
そんな訳で数学以外の教科の成績はまるでだめでした。
今時々ボーイフレンドから「お前さん、そんなことも知らないのか」と呆れられることがあります。
高校時代に身に付けていなければならない常識的な社会、国語、英語などが全然身についていません。それは70才を前にして後悔している一つなのです。もう一度夜間高校でも通いたいくらいの心境です。
でも、高校時代に世界の文学に触れたのは良かったと思います。
あの長編のロマンローランの「ジャン・クリストフ」は感激して二度も読みました。
そのわりには今全然内容を覚えていないのには呆れてしまいます。ハハハー。

| 今村 洋子 | 自分史 | 10:55 | comments(7) | trackbacks(0) |
自分史 24 初恋の人と別れ水戸の高校へ進学
  
      ピラタススキー場にて いつき君は初ソリデビュー

 都立大泉高校へは同じクラス委員として力をあわせて活動したK君も一緒に受験しました。
K君はいつも面白いことを行って皆を笑わせてくれます。
イケメンでもなく背も低いほうでしたが、私はひそかに好意を抱いていました。
彼も皆を笑わせながらチラチラと私の反応を見ているのです。彼も私に好意をもってくれていました。
初恋です。廊下てすれ違う時目を合わせてにこっと笑いあうようになりました。
その時のときめきはとても素敵なものでした。
彼も大泉高校を受験すると聞いた時の嬉しさ。私は絶対合格したいと思い始めて学校に残って遅くまで受験勉強をしました。
ふたりとも合格しました。中学校を卒業して高校進学が待ち遠しくわくわくしてとても楽しみでした。

ところがもうじき4月を迎えようとするときです。
父か急に水戸で就職することになり、みんなで水戸に移住することになりました。
私は東京残ってひとりで高校へ行くと主張したのですが、経済的にそんなことゆるされるわけありません。

父は台湾の工業専門学校の同級生が経営する電気工事会社に就職することになりました。
水戸には父の妹夫婦が住んでいて水戸での父の就職を強く勧めてくれました。
もう水戸の高校は入学試験は済んでいましたが、私の内申書と大泉高校を合格した実績で「県立水戸第二高校」の入学が許可されました。

家族の引越しはすぐとは行きませんので私は一足先に1人で叔母の家から高校に通うことになりました。
K君とは挨拶もせずにお別れしたのでした。
当時は電話を引いている家なとありません。もちろん携帯電話などもありません。連絡しようが無かったのです。

水戸第二高校は伝統ある女子だけの進学高校でした。建物は木造で古めかしいながらも威厳ある校舎でした。
伝統を重んじる古い考えの先生方たち。石神井中学校とは全然雰囲気がちがっていました。


| 今村 洋子 | 自分史 | 17:25 | comments(3) | trackbacks(0) |
自分史 23  石神井中学の三年間はとても充実して楽しかった
   
         暮れに飯田に両親ときてくれたいつき君 
     スーパーのアンパンマンの買い物車に乗ってご機嫌


 東京に引っ越してからすぐ私は石神井中学校の一年生に入学しました。
学校は石神井公園のすぐ側にありました。
まだ練馬区の石神井は田園風景がひろがるのどかなところでした。
畑のあぜ道をのんびりと歩いて学校に通いました。
先生たちも民主教育に燃えていた時期でしょうか、みんな生き生きしていて暖かく迎えられ、私はすぐ溶け込むことができました。
国語の時間に午前の半日を使って石神井公園で過ごし、詩を一遍書くという授業を楽しく思い出します。

1年の一学期の終わりに期末テストがありました。
今では考えられないのですが、全校生徒の成績を一番からビリまで全部生徒の名前と点数を廊下の壁に張り出してありました。
えっー。私の数学の成績がなんと全学年の中で18番のところに名前がありました。
クラスが9クラスもあったのでクラスで2番にはいるということです。
自分でもびっくりしました。
えっ。私って結構数学ができるのだと始めて認識したのでした。

また、国語の先生は作文教育に熱心で作文をよく書かされました。
あるとき教員室に来るように呼ばれました。
なんと私の書いた「転校した頃の私」と言う題の作文が読売新聞の作文コンクールで東京都知事賞に入賞したとのことでした。朝礼の時全校生徒の前で校長先生から大きな賞状を渡されました。
恥ずかしさと嬉しさで一杯でした。

2年生になると私はクラスの副委員長に選ばれるようになりました。委員長はもちろん男子生徒です。ふたりで協力してクラスをまとめていくのですが当時は皆素直に協力してくれ、そんなに難しいとは思いませんでした。

隣の大泉町に養護施設「大泉学園」がありそこから通学してくる生徒がクラスに1人か二人いました。
ほとんどが戦争で両親をなくして孤児になつた子供たちです。
あるときこんな事件がおきました。
学芸会の演劇がある日です。出演する生徒の衣装が行方不明になりました。
みんなで探したら便所の肥溜めに捨てられていて使い物になりませんでした。
誰の仕業かわかりませんが、施設から通っている生徒が疑われました。
衣装を親が作ってくれる生徒にしか演劇の役は廻ってきませんでした。もちろん私も同じです。

その時私は疑われた施設の生徒にとても同情しました。
私はクラス委員だからに積極的に仲良くしようと思ったのです。
施設から通うA子さんと友達になり彼女だけはバラックの家に遊びに来てもらいました。
ある時彼女が柄模様の入った素敵な布をもってきてブラウスを作って欲しいというのです。
母に頼むとよかったのですが母いつも仕事に行っていていません。
そこで母のみようみまねで布を裁断しミシンで縫ってみました。
まったくもう。上手く出来るわけはありません。折角の布はめちゃくちゃになってしまいました。
それから彼女は私から離れていきました。
いまでも思い出すと申し訳なかったと赤面してしまいます。

三年生になると進学か就職の話がでるようになりました。
当時はクラス50人のうち10人くらいしか高校へ進学する人はいませんでした。
私は進学組になりました。都立高校へ進学できる成績であったということもありましたが、両親は進学は当然のように進めてくれました。
貧乏は変わりなかったのですが、私も当然高校進学するものと決めていました。
隣町の大泉高校を受験することになりました。



| 今村 洋子 | 自分史 | 16:07 | comments(3) | trackbacks(0) |
自分史ー22  東京での貧乏な3年間の生活

  
   あけましておめでとうございますー自分史また続けますのでよろしく

 昭和29年、東京での生活が始まりました。
父の妹夫妻が練馬区の石神井に小さな土地の上に小さな家を建ててすんでいました。その敷地内に土地一杯に小さな家を建てさせてもらい住むことになりました。
四畳半一間しかないバラックの家でした。

ここで私たち一家は水戸に移るまでの3年間を過ごすことになったのです。
まだまだ戦後の混乱が続き、高度成長が始まる前のことです。
父は東京なら仕事にありつけるだろうと上京したのに中々仕事が見つかりませんでした。
母は叔母の紹介で映画館の掃除の仕事や内職などをして家計を助けます。
本当に貧乏を体験しました。
朝早くにうどん屋さんにうどんを買いに行かされました。前日の売り残りがあると一束を10円するところを7円で買えたのです。また食パンのみみの部分も安く買えるので買いに行かされました。
お米は外米が安くで買えたので不味いポロポロの外米ばかり食べていました。
おかずは秋刀魚を焼いて食べたことは覚えていますが、肉を口にしたことはありませんでした。
ですから何年か後に始めて食べる肉が豚か牛か鳥肉か分からず恥かしい思いをしました。

バラックの家は壁が板一枚です。隙間から風が入ってきて冬は寒くてたまりませんでした。
勉強机などありません。それどころか場所もありません。このバラックの家で勉強した覚えがありません。友達にこの家を見られるのがいやで誰も連れてこないようにしていました。
なのに家庭訪問のとき先生にぞろぞろと級友がついてきてついにバラックの家に住んでいることがばれてしまいとても悲しい思いをしたことを何時までも思い出します。

ただ母の気配りで服装だけはいつも可愛い洋服を着ていました。
安売りの布生地を買ってきて一日でミシンで洋服を縫ってくれました。
洋服ができるのをミシンを踏む母の側でわくわくしながら楽しみに待っていた気持ちは本当に幸せでした。

叔母夫婦には私たち兄弟と同じ年頃の二人の男の子と1人の女の子がいました。私たちはすぐ仲良くなりよく外で真っ暗になるまで遊びました。
叔母夫婦も私たちと同じ貧乏でした。
叔母は安い物を売っているところの情報をよく知っており母はとても助けられたようです。

東京には父の弟と異母兄弟の兄が住んでいました。
弟のほうは東京電力に兄のほうは郵便局に勤めていてそれぞれ家庭を持っていてました。
弟の叔父は蒲田にすんでいました。その叔父のところで始めての子供が生まれた時私はお産のお手伝いにアルバイトとしていきました。
洗濯機などない時代です。赤ちゃんのオムツを洗ったり掃除や買い物の手伝いなどをしました。
充分な手伝いにはならなかったとおもいますがお駄賃をもらった時は嬉しかったです。

父の兄の叔父夫婦は日吉にすんでいました。私より一つ年上の従兄弟がいました。
そこには時々遊びにいきました。叔母が美味しいご馳走をしてくれ、泊まる時はふかふかの布団に真っ白なシーツに寝かせてくれました。そのうちで始めて牛乳というものを飲みました。
なにか牛乳というものがとても文化的で高級な飲み物のような気がしたものです。





| 今村 洋子 | 自分史 | 10:53 | comments(3) | trackbacks(0) |
自分史ーその21 私の歩んできた道  小学生高学年時代
  
     小八郎山頂から撮った白化粧した南アルプスー12月5日

 首を長くして楽しみを待つ気持ち。今ではそんなことめったにありません。
待ちどうしくてたまらず前の日は眠れませんでした。
それは少女雑誌の月刊誌の発売日のことです。
私が小学生の高学年になったころは世の中も落ち着いてきて、我が家も経済的に安定してきたのでしょう。
忘れもしません。クリスマスの朝枕元に美しい少女雑誌が置かれていました。
それから毎月父はその少女雑誌を買ってくれました。その発売日の待ちどおしかつたこと。新しい雑誌を手に取ると砂地に水がしみるように私はむさぼり読みました。数時間で全部読んでしまいました。
今の子供たちは生まれた時から何でも与えられていています。
あの時私が味わった嬉しくて幸せな気持ち。そんな気持ちを味う子供がいるのでしょうか。今思い出してもわくわくします。

小学5、6年のころはもう一戸建ての社宅で暮らし弟も生まれ、父は家族みんなを海水浴などにつれていってくれました。

学校では3人の仲良しの女友達が出来、4人で汽車に乗って小倉市までデパートでの買い物に行ったことがあります。デパートには物も溢れてきていました。そんな物も見るだけでも楽しくてたまりませんでした。
はじめての子供だけの冒険小旅行です。母はお小遣いを持たせてくれたので、家族みんなのお土産を買いました。ちょっとだけ大人になったような気分でした。

私は6才まで一人っ子で育ったのですこしぼんやりした子供だったと思います。いじめにもあいました。当時全部ゴムで出来た粗悪な靴が出回っていました。すぐ靴の横縁に裂け目ができました。
ある子が自分のゴム靴を使って遊びをしていました。どんな遊びだったか覚えがないのですが私がそのゴム靴を触ったあとです。
私の触り方か強かったので横の縁が避けたと非難されました。弁償するようにその子に迫られました。私は泣きながら家に帰り一部始終を母に話しました。
母は黙って弁償するようにと次の日お金を持たしてくれました。
「きっとその子は靴が破れて親に言えないのでそんなことしたのよ。ごめんなさいと言って黙ってお金を渡しなさい」と母は言って当時一足90円の靴代を手に持たせてくれました。
母のそんな対応にとても助けられました。その後その子とは仲良く遊ぶようになりました。

一方、あれは私たちがあの子にいじめをしていたのだなと思いあたることがあります。
私たち4人の仲良しグループに入れてもらいたがっている女の子がいました。
私たちはその子を決してグループには入れようとせす゜、陰口を言ったりわざと意地悪なことをその子にしていました。そのことで4人の結束を図っていたのでした。
その子の寂しそうな顔を今でも思い出し心が痛みます。
当時はいじめという言葉もしりませんし、いじめを受けているとか、いじめをしているなどの自覚はもちろんありませんでした。
子供の心はまだ未熟で思慮が足りずいつでも残酷なところがあるのですね。
でも、大人の世界も似たりよったりだと思いませんか?
ただ大人になればそれを避ける方法の知恵をつけてきているのだと思います。

小学校を卒業する日が近づいて、中学校進学に仲良しの友達と楽しみにしていました。
そんな時父が炭鉱を辞めることになり東京に行くことになったと母から告げられました。
「東京へ行くのだ」憧れのの首都です。
父が炭鉱をリストラされ、両親は失望して不安な気持ちでいるなど知る由もありません。
私は期待に胸を膨らませて上京する日を待ちわびていました。
友達からは東京で暮らすことに羨ましがられました。

| 今村 洋子 | 自分史 | 09:13 | comments(5) | trackbacks(0) |
自分史ーその粥〇笋寮犬た道   小学生の低学年時代

 
  これからの楽しみはクリスマスローズーもう花芽が出ています

 なにか習いものをすると必ず日頃の練習成果を報告する「発表会」なるものがあるのですよね。 
私がフルートを習い始めたのは42才からです。
そのフルートの発表会で下手な演奏する前に私は必ずこんな言い訳の挨拶をします。
「私の小学校の低学年時代は学校の教室が足りず、午前午後と分かれた二部制でした。ですから一日の授業は三時間しかなくて音楽や体育は当然削られました。
子供のころに音楽の授業がなかったので音楽音痴です。フルートのレッスンはとても苦労していますので下手な演奏ですがお許しください」と。
そうです。戦後のエネルギーは石炭でした。
炭鉱のある町は人口が増え小学校の生徒も増えて教室が足りず午前午後に分かれた二部授業でした。
炭鉱の社宅から遠賀川の近くにある小学校をのんびり歩いて通いました。
多分一時間くらい歩いて通ったと思います。
ちゃんとした通学路を通らず、近所の高学年のお姉さんたちと田んぼのあぜ道を遊びながら通いました。
その田んぼのあぜ道で一度蛇を踏んだことを覚えています。その気持ち悪かったこと。
それ以来蛇は怖くてたまりません。
でも、授業が三時間しかないので遊ぶ時間はたっぷりありました。
縄跳び、ゴム飛びっこ、ドッチボールなど校庭で思い切り遊びました。
なにをしても私は運動音痴で振るいませんでしたがいじめにはあわずとても楽しかったです。

しかし、低学年時代の禄な思い出がありません。
戦後の混乱期だったのでしょう。
遠賀川の土手で遊んでいたときです。川にかかっている汽車の線路の橋に縄をかけて首吊り自殺をしている人を発見したことがあります。
また、朝学校に行くと警察の方が何人もいて教室に入れてくれません。教室の中で若い女の人が殺されていたのでした。・
そんな強烈な出来事は何時までも忘れません。

北九州は今でもそうですが梅雨どきにバケツの水をひっくり返したような大雨が降ります。
学校が休校になり大雨に濡れながら道が川になった所をジャブジャブして帰ったことがありました。
また、たまに冬は雪がふりました。当時長靴なともっている子供はいませんでした。
私も濡れた靴を脱いで裸足で雪道を歩いて帰りました。

この時代子供の絵本や児童本など何もみたことがありません。
貧乏で買ってもらえなかったのかもしれません。
感動し心に残る絵本にふれたり、読書が出来なかった子供時代をまるで真っ白の空白時代のように思うのです。
人生の入り口の時に素晴らしい絵本や本に出会っていたら私の人生違っていたかもね。


| 今村 洋子 | 自分史 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分史ーその魁〇笋寮犬てきた道  炭鉱町での幼児期
JUGEMテーマ:日記・一般

寂しくなつた庭で何時までも頑張って花を咲かせている菊

  芥川龍之介の小説に「芋粥」というのがあります。
この小説の芋粥は山芋を切り刻んで甘蔦の汁で煮込んだものだそうで、その芋粥を飽きるほど食べてみたいという男のお話です。その小説に出てくる「芋粥」とは違うのですが私は5才の時に栄養失調になり死にかかった時に「芋粥」で命拾いをしました。
その芋粥は白米のお粥の中に小さく角切りのさつま芋が入ったものです。
ですから「芋粥」という言葉を見たり聴いたりするだけけで私は異常に反応したいっきに5才の記憶に戻ります。

父が北九州の炭鉱の電気技師として働くようになつて親子三人は一部屋しかない寮のようなところで暮らし始めました。
食料の配給が少なくて食べるものの確保に母は困っていました。
母と道端の野草を摘んだおぼえがあります。
当時アメリカから牛や馬の食料になっていたトウモロコシとか糠が援助物資として入ってきていたようです。
5才になった私はなにやらとても不味いものを食べさせられた覚えがあります。それがアメリカからきた動物の食べ物だったかもしれません。私は下痢が続き食べ物を何もうけつけなくなり痩せ細り、医者より命が危ないといわれたそうです。
母はの近所の人に私を預けて汽車賃までお借りして、福岡の小倉に住むすぐ上の姉のところまで食料を貰いに行ってます。その叔母の夫は帰国後幸いにも小倉刑務所に就職していました。
4人の子供もいたのに白米と味噌と醤油などを少しずつ分けてくれ、汽車賃までもたしてくれたとのことです。
私はその叔母からいただいたお米で母が作ってくれた芋粥で命を吹き返したのです。
なんて美味しい芋粥だろうといつまでもその味を思い出せます。

元気になつた私は寮に住んでいる子供たちと友達になり遊んでもらいました。
今思い出すと引揚者の子供だといっていじめにあっていたのです。
私は鬼ごっこでもかくれんぼでも鬼ばかりやらされていました。

そんな栄養失調になつたりいじめにあっていた幼児期に楽しく嬉しくてたまらない場所と時間がありました。それは母の一番上の姉が大分県に住んでいて母が時々そこに連れて行ってくれました。
その叔母には私より一つ年上の一人娘がいました。「まさこ姉ちゃん」とよんでいたその従姉妹が私を可愛がってくれよく遊んでくれました。
海辺の近くに住んでいたので海辺で貝殻を集めたり海水浴をしたりして遊んでくれました。
よほど楽しく居心地がよかったのですね。
帰るとき「まだ帰りたくない」といって泣き叫び駅で座って抵抗していた私を思い出します。

その「まさこ姉さん」は私たち一家が炭鉱町を離れたから交流がなくなりましたが、ずーと大分県に住み続けています。
私は時々その楽しかった大分での「まさ姉さん」とのひと時が私の故郷のように思い出されるのです。
| 今村 洋子 | 自分史 | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
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