
今年の紅葉はいまいちでしたー富士見台高原にて
昭和56年、夫は41才私は39才になりました。この年家庭生活に大きな変化がおきました。
夫が長野県高等学校教職員組合の書記長に選ばれ長野市に単身赴任することになりました。
5年間の出向ということで5年だけ頑張れば又一緒に暮らせるのだからとわりと気楽な気持ちで夫を送り出したのでした。
4年後に夫がすい臓癌になってあっという間に亡くなってしまうのです。再び一緒に暮らすことはありませんでした。
組合活動のストレスと喫煙と野菜の少ない外食ばかりの生活が夫の命を奪ったのだと思います。
こんなことになろうとは夢にも思わず気楽に単身赴任として送り出したことが無念でなりません。
私が一緒に付いていき食事などちゃんとしていたらこんな病気にはならなかったのないかとかいや教師の仕事が好きだったのだから組合の役員の就任に反対したら良かったのだとか色々考えて悔やんだのでした。
夫が長野市に住んでいたのは2年間だけでした。その後夫は日本全国高等学校教職員組合の書記長に選ばれ東京に赴任していきました。
夫が長野に住んでるとき私は三人の子供たちを自家用車に乗せてよく長野の夫のところへ行きました。
当時は伊那までしか高速道路が通っていないので高速道路を下りた後は松本市の市街地を通り抜けくねくね曲がった国道19号線を通り5時間くらいかかって長野市までいきました。
車の中での子供たちとのお喋りはとても楽しいものでした。八坂村を通る時は「キャー八墓村だー」と言いながらキャーキャーいって通ったものです。
長野では夫と長野市近辺の飯綱高原や戸隠や野尻湖などのドライブを楽しんだり、冬は沢山あるスキー場にも行きました。
飯田に帰ってくる時は同じ道はつまらないからと白馬村のほうを廻り青木湖をみながら大町市を通ってドライブを楽しみました。
そんな訳で私にとって長野県は大きな私の庭のような親しみを持つようになりました。
夫の東京行きが決まった年、長女が現役で津田塾大学に合格し、次女が地域の進学校の飯田高校に合格しました。夫はよほど嬉しかったようです。
夫の提案で写真館で家族全員で写真を撮っています。今では家族みんなで撮ったちゃんとした写真はそれ一つだけでとても良い思い出の写真となっています。
でも娘たちは皆ブスッとした顔であまり嬉しそうにはしていません。夫は娘たちの服装について独自の価値観を押し付けていました。
紺色か鼠色のブレザースーツに白い靴下と黒い靴。みんなそんな服装をしています。それぞれが反抗期に入っていました。その頃女の子はフリフリのついたスカートなどがはやっていてそんな服装に憧れていたのでした。
経済を考えて夫と長女が一緒に暮らすことになり長女の大学の近くにマンションを借りて二人の生活が始まりました。
長女にとっては親からの自立の時期に服装や色々な行動に口を挟む夫との同居は不本意だったようですが夫は全国の県支部へ出かけることが多くほとんど留守がちだったのです。
飯田では次女と三女の三人暮らしはぽっかり穴があいたような寂しい毎日でした。
そんなある日、次女の通う飯田高校でアメリカの少女の留学生を一年間受け入れたいので、ホームステイとして受け入れてくれないかと相談がありました。
部屋も空いているしちょうど寂しくなった所なので受け入れることにしました。
すこし私も英会話ができるようになれば良いなとの思いもありました。
平成59年の3月の末、ボランテアの女子大学生に連れられてカースティンが飯田駅に降り立ちました。
色の白いとても美しい少女でした。しばらく見とれてしまいました。こんな美しい少女と一年間一緒に暮らせるのだと嬉しさがこみ上げてきました。