blog index

介護ほっとステーション



自分史 63 夫からのプレゼントで変わった娘たちの人生

  
      部屋の中で咲きだした「バラ咲きジュリアン」

 夫が亡くなった時、三人の娘たちを独立させていかねばならないと思うと不安が一杯でした。
蓄えはなにも無かったので、次女も三女も大学の進学は諦めさせねばと思っていました。

 ところが夫がなんと掛け捨ての生命保険に入っていることが分かりました。
本当にびっくりしました。夫は生命保険が大嫌いで勧誘があっても決して加入しませんでした。
それが何故私に内緒に加入していたかとても不思議でした。
それは労働組合が当時、掛け捨ての生命保険を組合員に加入させるキャンペーンをしていたのでした。役員としては率先して加入せざるを得なかったようです。

 これは子供たちへの父親からのプレゼントだと思いました。私はこの保険金を子供たちの教育費にみんな使ってしまおう決心しました。

娘たちの人生が大きく変わりました。

 津田塾大の3年になっていた長女は、夏休みにイギリスに短期留学をして英語力を伸ばし、卒業後2年間高校の英語教師をしていました。
その後、ニューヨークに渡り3年ほど日系人向けの新聞の新聞記者をしていました。
その同じ新聞記者をしていた日本青年と結婚して、日本に帰ってきて二人の娘の母親になりました。上の子は障がいを持っていますが、子育ても大分楽になってきたのとのことで、現在東京で英会話塾を始めています。


 高校3年だった次女は経済を考えて国立大学を受験させる予定でした。
自分が行きたかった私立大学に進路変更し無事「国際基督教大学」に入学できました。
そして在学中にアメリカの東海岸、フラデルフアのテンプル大学に1年留学しました。
卒業後コマーシャル制作会社入社。英語力を駆使して活躍してきました。現在、同じ会社の青年と結婚し「いつき君」の子育てをしなからすこし第一線から退いて同じ会社で働いています。

 三女がまた父親の死によって大きく人生が変ったのではないかと思います。
中学生の三女はちょうど反抗期の真っ最中でした。
夫がうるさく勉強しろということに反発して演劇部に入っていた三女は、高校進学しないでプロダクションに入ろうとひそかに思っていたとのこと。後から聞いてびっくりしました。
そんな反抗の真最中に大好きな父親が亡くなったのです。猛勉強するようになりました。
1年浪人したのですが「和歌山県立医科大学」に入学できました。
そして、在学中にニューヨークのコロンビア大学に1年留学ました。
そのニューヨーク滞在中に知り合った日本の青年と結婚し、日本に帰ってきて二人の子の母親となり、医師として東京で働いています。

 夫が残してくれた保険金はもう残っていませんが、娘たちの教育費に使ったのは大正解と思っています。私は教育に対してはあまりうるさく勉強しなさいとは言ったことはありませんでしたが、ひとつだけ言ってきたことがあります。
「女の人が自分の人生を自由に生きていくには、経済的にも精神的にも自立していないと出来ない。
それには学力を身に付け何かライセンスを持って選択肢を沢山持つこと。」


 現在三人の娘たちは皆東京で家庭を持ち忙しい毎日を送っています。
家族同士がとても仲が良く、困ったことがあるとお互いに助けあっています。
もちろん私も要請があると上京して応援にかけつけます。
ひとりくらい飯田に帰ってきて暮らしてくれればと思ったことがありましたが、今はこれで良かったと本当に嬉しい気持ちです。

夫もあの世で娘たちを見守ってくれている、そして喜んでくれていると思います。






 

| 今村 洋子 | - | 10:19 | comments(2) | trackbacks(0) |
自分史 62  夫の死を受け入れて    
  
  あけましておめでとうございますー飯田でのいつき君

 夫の在宅死を私は深い悲しみの中で、なにかほっとする不思議な気持ちになりました。
それは在宅ターミナルを選んで、良い死に方をさせてあげたという安堵でした。
病院での死を今まで沢山みてきました。親切な看護をしているという自己満足をしていたのですが、患者さんの気持ちを理解しないで、いろんなニーズを我慢をさせていたのだと気づきました。

 「生命の質と生活の質」がもう治療法のない患者さんにとっては、いかに大切かを身をもって体験したのです。
 このブログを読んでる娘から「お母さん、そういえばお父さんはすこし状態の良い時に、しきりにお母さんに「マイウエイ」の曲をピアノで弾くように言って、何度も弾かせて聴いていたでしょう。あれを聴きながらお父さん涙を流していたのよ」と言ってきました。

 そうだった。忘れていた記憶がよみがえってきました。
居間にピアノがあって私はポロンポロンといった程度ですがピアノをひいていました。
あるとき「マイウエイ」の曲をひいて夫に聞かせました。
夫はその曲をとても気にいって何度も「おい、マイウエイもう一度弾いてくれ」と言って何度も聴きたがりました。聴きながら涙をながしていたなんて、娘から始めて聞きました。
私は弾きながら夫の短い生涯を想い、涙が流れてとまりませんでした。
夫は自分の死を分かっていたのですね。

 一月ほどの在宅ターミナルでしたが濃密な家族との絆をもち、毎日の往診で入院中と変わらない医療を受け、そして意識のなくなる二日前まで入浴をさせることができたなんて、夫は誰も経験しない良い在宅ターミナルを送ることができたのではないかと思います。

 日本高等学校教職員組合の現役書記長の葬儀は、とても大変なものでした。
飯田と東京と二回も行われました。
飯田での葬儀は700人収容できる「鼎文化センター」で行われました。
在職の席がある阿智高校と高校の労働組合と私たちの住んでいるお組合の合同葬儀という形で行われました。しかしなんと12000人の方が来てくださり、入りきれないという事態でした。

 「人の寿命は皆同じですよ。死んだ年齢に涙を流した人の数を掛けるのです。」とおっしゃって慰めてくださった方がいました。
本当に45才という若さで亡くなった夫に、なんと大勢の方が悲しんで下さったことでしょう。

 またその方は「人の悲しみは日常生活の変化なのです」ともおっしゃっいました。それも本当でした。土帰月来の生活を送っていた夫は土曜日の午後4時ころに、「ただいま」と東京から帰ってきました。
しばらく土曜のその時間になると、意識してなくても胸が苦しくなり悲しみが湧き上がってきました。

 夫が亡くなって一年間は何がなんだかわからないほど夢中に過ぎていきました。新聞や本が読んでいても頭に入らなくて困りました。娘たちもそれぞれの人生が変わってしまいました。

 そして、私の中に少しずつ在宅療養や在宅死を望む人たちの在宅看護のお手伝いをしたいとの思いが膨らんできました。


| 今村 洋子 | - | 19:01 | comments(3) | trackbacks(0) |
自分史 61  畳の上で皆に囲まれて息を引き取った夫
  
  霜にやられたベコニアはプランターに移し家の中に入れました

 診断がついて1カ月たちました。夫の状態はお腹に腹水がたまり身体も浮腫んできました。便はどこかが出血しているのか真っ黒のタール便になりました。
腸の動きが悪くなり胃袋に胃液がたまり吐き気を訴えて苦しがりました。
医師から胃の中へ管を入れて胃液を出すように指示がでました。
その管のことをマーゲンゾンデといいます。
入れっぱなしにするよう指示か゛出たのですが夫はそれを嫌がりました。
私は胃液を抜いたら管を抜いてまた夫が吐き気が出たら管を入れて胃液を抜いてあげました。
 
 そんなときです。友人がアイスクリームをお見舞いに持ってきてくれました。
夫はそれを食べたいというのです。
そうだ、食べてまた苦しくなれば管で胃の内容物を抜いてあげようと思い、私は夫にアイスクリームを食べさせました。
「美味いなあ。こんな美味しいものがあるんだなあ」
夫は本当の嬉しそうに美味しそうにアイスクリームをぺロリと食べました。
あのときの嬉しそうな顔を今でも鮮やかに思い出します。
食べ終わってすぐです。
「おい、気持ち悪くなった。抜いてくれ」
私は「はい。鼻から管をいれるけどちょっと我慢してね」
何度も管を入れているので夫も慣れたものです。管はすぐ胃袋にはいり胃液と混じったアイスクリームを大きな注射器で抜き取りました。
そんなふうにして夫は何度もアイスクリームを食べました。

 また直腸に黒いドロドロした便が溜まってきます。腸の動きが悪いしお腹に力がはいりませんので出すことが難しくとても苦しみました。
私は太いチュウブを直腸に入れて、これも大きな浣腸用の注射器で抜いてあげました。
楽になったと夫は喜びました。

 6月に入りました。腹水も増え、身体中が浮腫んで体重が重くなりもう女手だけでは風呂場まで運んでいけません。
そんな時阿智高校の卒業生の男の子が二人見舞いにきてくれました。
「風呂に入りたい。君たちおれを風呂場へ連れて行っていれてくれ」と彼らに頼んだのです。
状態は良くありませんが私は入れてもらうことにしました。
ひとりが後ろから身体を抱えひとりが両足を抱えて風呂場に運び浴槽に入れました。
「ああ、気持ち良いなあー」と浴槽の中で自分で顔を洗ってしばらく風呂に浸かっていました。
それが夫の最後の入浴でした。

 その二日後から夫は急に意識がなくなりました。
呼吸は苦しそうな努力呼吸です。
危篤状態でいつ息が止まってもおかしくない状態でした。東京の大学に行っている長女を呼びました。

 6月10日の夜の10時ころです。10人ほどの組合の先生方が長野市で役員会がありその帰りに駆けつけてくださいました。
夫はその先生方を待っていたように兄弟、子供たち、組合の先生方に見守られながら6月11日の朝方息を引き取ったのです。

 本当に診断がついて一ヶ月半でした。カースティンの送別会で元気にホスト役を勤めてからわずか2カ月でした。ずーと悪い夢を見てきたようでこの現実を受け入れるのに時間が必要でした。
夫の遺体はすぐ健和会病院に移し解剖をしていただきました。
なんと心臓にまで癌が転移していたと報告を受けました。

| 今村 洋子 | - | 10:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分史 60 夫の在宅ターミナル
  
     ビニールハウスの中でも霜に傷ついたベコニア

 5月の11日から自宅療養に入りました。
南向きの8畳間の客間を病室にしました。
南の庭には当時飼っていた犬の「ハナ」と、その犬が産んで貰いての無かった子犬の「ノロ」が仲良く戯れていました。
芝生と白樺の木が青々と芽吹いています。
夫は嬉しそうに何時までも庭を眺めていました。
布団の縁には猫の「トラ」が居眠りをしています。その猫を夫は利き手で撫でているのです。
病院では味わえないのどかなひと時でした。
 夕方になると中学3年の三女と高校三年の次女が「ただいまー」と大きな声で帰ってきます。
まず夫のところへ顔をだしてその日の学校の出来事を報告します。
夕飯を夫の部屋にちゃぶ台を持ち込んで家族みんなで食べました。
夫はほとんど食べれません。一度だけいつも行っていた居酒屋の焼き鳥が食べたいというので買ってきてテーブルに乗せました。
美味しいと言ってひとくしだけ夫は食べました。それが夫が食べ物を口にした最後の食べ物でした。

 左半身麻痺で痛みが消失したことは本当に神様の贈り物のようでした。
そして、少し自分の正確な状態が解からなくなっていました。癌ではないかと疑っていたのですが、そんなことを口にしなくなりました。
お見舞いに来た方に二本指を差し出して「ピース」の合図をして、病気が良くなったのだと知らせるのでした。

 夫は中心静脈栄養法による点滴を肩からしてもらい私がその管理をしました。
片麻痺のため歩くことができませんが、夫はお風呂が大好きで入りたがりました。
子供たちに手伝って夫を浴槽まで運びお風呂に入れました。
麻痺の無い手で頭や顔を洗いとても気持ちよさそうでした。

 そんなやや落ち着いた状態はほんのひと時でした。夫はどんどん状態が変化していきました。
私は時間がこのまま止まって欲しいとどんなに望んだことでしょう。
左上腹痛も出できました。
麻薬のシロップを4時間置きに飲むよう指示が出て飲ませるようになりました。
夫は「この薬はどえらい良く効くなあー」といって喜んで飲みました。きっと気分がよくなつたのでしょう。そのかわり副作用で腸の動きがわるく便秘になり苦しむようになりました。
私はグリセリン浣腸をしてポータブルトイレに座らせて便をだしました。

 そのうち腹水が溜まりだして全身に浮腫みが出てきました。
苦しいのでしょう。主治医に「この病気はどえらい辛い病気だなあー」と言っていましたが癌でないかと聞くことはありませんでした。

 毎日のようにお見舞いの方が見えます。夫の大学時代の友人、教え子たち、労働組合の仲間の先生たち。
私の母が水戸から手伝いにきてくれました。
お見舞いの方には夫にちょっとだけ会ってもらい、あとは居間に来ていただいて母にお茶の接待をしてもらいました。
東京や北海道や九州からも来てくださるのです。お茶の一つも飲んでいってもらいたかったのです。
私の面識の無い方のほうが多いのです。
私は思いついて原水爆反対の署名用紙に夫からのお願いだからと言って署名をお願いしました。
後でその署名用紙がとても役にたちました。

 5月の末には腹水が段々増えて呼吸も荒くなりもう永くないとの予測がつきました。
夫の兄たちが九州と横浜から駆けつけてきました。泊り込んで一緒に見守ってくださることになりました。それは本当に心強かったです。
| 今村 洋子 | - | 09:08 | comments(1) | trackbacks(0) |
自分史 59 在宅死を選んだ夫今村彰の最後
  
        一番最後に庭を賑やかくしてくれた菊

  今村彰は昭和60年6月11日にすい臓癌で45才の生涯を閉じました。
もう今年で26年になりますが、いまだに夫の死が昨日の出来事のように思い出されるのです。

 カースティンを成田で見送ったとき腰痛と下肢の痛みを訴えていた夫は4月の半ばに東京の小豆沢病院の整形外科に入院しました。
腰痛体操で腰痛が軽くなったと元気な電話をもらいました。
やっぱり過労からきた腰痛に違いないと思い私も安心しました。
ところが急に内科病棟に移され、色々な検査が始まりました。腫瘍マーカーが高い数値に出たということでした。そして全身のCT撮影が出きる病院に検査に行かされました。
その直後、私に主治医から話しがあるから至急来て欲しいと連絡がありました。

 病院についた私はすぐ主治医からCTの写真を見せられて説明を受けました。
夫はすい臓の尾部にボール玉大の癌ができていてすでに肝臓に転移をしているとの説明を受けました。腰の痛みはこのボール玉の癌が腰の神経を圧迫していたとの説明を受けました。
すい臓癌は悪魔の病気といわれ、症状が出て診断がついた時はもう末期に入っているのです。
余命2カ月といわれ私の頭は真っ白になりました。

 すぐ自宅へ連れ帰り、私の勤めている健和会病院へ転院させることにしました。
夫には治療が永くなるから健和会病院で治療をすると言って説明しました。
夫は食事が食べられない、微熱が出る、お腹が痛いなど急速に症状が悪化してきました。
私は自分の車の助手席に夫を乗せて東京から飯田へ向いました。
胸が潰れそうでしたが涙を見せることはできません。癌の告知は当時はほとんどしませんでした。
夫は癌だとは知る由もなく飯田に帰れることをただ喜んでいました。

 5月の連休を自宅ですごしましたが腹痛がどんどん増してきて食事は全然とれず、夫も入院を希望して連休明けに個室を開けてもらい入院しました。すぐ点滴が一日2000CCはじまりました。
夫はとても点滴を嫌がりました。長時間身動きが出来ないのとお腹が張ってきて苦しいといって拒否するのでした。
一日500CCしかできない日がありました。
そのせいで血液が濃い状態になっていたと思います。夫は突然脳梗塞を起こし左半身麻痺になってしまったのです。
するとなんということでしょう、左上腹部の痛みが消失したのです。

 一方、夫が余命2カ月の重病だということが職場をはじめ地域に住んでいる夫の同僚や教え子たちに知れ渡り衝撃を与えました。
面会禁止にしてもひとめお会いしたいという面会の人が全国から押し寄せてくるようになりました。
私は自宅に連れ帰って在宅ターミナルを選択することを主治医に相談しました。
主治医も賛成してくれできるだけの応援を約束してくれました。
それは私が看護婦で医療的ケアーを担うことができることと自宅が病院のすぐ近いという条件で実現できたのです。
夫は腹痛がなくなり病気が快方に向かっていて退院できるのだと思ったようです。
自宅での療養生活が始まりました。
| 今村 洋子 | - | 20:10 | comments(2) | trackbacks(0) |
自分史 58 カースティンの帰国
 
       隣りの畑のリンゴ 収穫間近です

 カースティンの母方の祖父母の宿泊しているホテルは新宿の京王プラザホテルでした。
最上クラスのとても広い部屋に泊まっていました。
品が良く笑顔が可愛いフレンドリーな老夫婦でした。
カースティンと一緒に私たちが訪ねたことをとても喜んでくださいました。。
偶然に同じホテルに泊まっていたお隣りの和田夫人も一緒にお部屋に来てくださいました。和田院長の学会に同行していたのだと思います。
和田夫人は何かとカースティンの世話をやいてくれていました。

英会話での話しが弾むというわけには行かず、和田夫人の提案で日本の歌を皆で歌うことにしました。
和田夫人はとても良い声をしていて歌が上手いのです。彼女のリードで「荒城の月」「赤とんぼ」などを歌いました。祖父母もカースティンと一緒にフォスターの歌などを歌ってくれました。
歌は皆の緊張を取り、和やかで楽しい雰囲気になりました。
その後は皆でお寿司を食べに新宿の街に繰り出したのです。
カースティンは涙をためて私たちの祖父母に対するもてなしを喜んでくれました。
祖父母はアメリカで幾つものスポーツ店を持つているオーナーとお聞きしました。
アメリカンドリームの成功者なのでしょう。
モンタナ州の大きな湖の側に彼らは素晴らしい別荘を持っていて、後に私たちも何日間かそこで過ごさせてもらいました。

さて冬がやってきてカースティンとのお別れも近づいてきました。カースティンはスキーが大好きとのことでスキーにはまっていた私は彼女を連れて近くのスキーに時々行きました。とても上手に滑って楽しんでいました。
学校行事のスキー教室で志賀高原のスキー場にも参加しました。

日本のお正月の行事もなるべくいろいろ経験させたいと思いました。
初日の出を拝むために大晦日から風越山の中腹の山に皆で登りました。そこは大勢の飯田市民が登っていてそれぞれが勝手に焚き火をして、お餅を焼いたりお雑煮を作って食べながら日の出を待つのです。
私たちは夫がガスボンベを背負ってきてくれたので鍋でお汁粉を作って食べながら日の出をまったのでした。初日の出に向かって私は家族全員が健康でありますようにと祈りました。でもその年です、夫がまさか病死するようになるとは予想だにせず幸せな気分で下山しました。

初詣のお参りには娘たち三人とカースティンに振袖を着せてあげました。和田夫人や友人から四人分の振袖をお借りして美容院で着付けをしてもらいました。
その華やかなことにうっとりしました。
飯田市民が一番大勢あつまる大宮神社でお参りをして四人がそろって飯田市内を歩きました。
それは皆の目を引きつけたようです。皆振り返って見ていました。パチパチと写真を撮る人もいました。楽しい思い出です。

学校が終了式を迎えいよいよ帰国の日が近づいてきました。
私は喫茶店を借り切って送別会をしてあげました。
ピアノを客席の真ん中に置いてある「イフ」という喫茶店です。高校の先生はじめクラスメイトやカースティンを色々と接待してくれた私の友人も参加してくれました。50人くらいだったとおもいますがお店一杯になり、歌ったり踊ったりの賑やかな送別会になりました。
春休みに入っていた夫も嬉しそうに参加していました。とても顔色も良く病気がひそんでいる気配などその時はありませんでした。その時和田夫人が夫の写真を撮ってくれていたのが元気だった夫の最後の写真になったのでした。

カースティンが成田飛行場からアメリカに帰国する日私たち家族は皆で見送りに行きました。
夫も東京の職場から駆けつけてきました。
その時夫は腰が痛くて足まで痛いといって歩き方がとてもつらそうにしていました。私は過労だろうと思っていました。その時すい臓癌の症状が出始めていたのです。

カースティンには日本に対して良い思いをもって帰って欲しいと思いました。
私は出来るだけのことをしてあげたと思うのです。私も彼女と一緒に楽しむことが出来ましたが帰国した後は本当に寂しかったです。

後にカースティンの母親が「娘は日本のお母さんのほうが好きだそうよ」と言ったのですがお世辞でなければ嬉しかったて゜す。


| 今村 洋子 | - | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分史 57 カースティンと暮らした1年 夏休み編

  
        最近のいつき君ー東京のホテルにて


 夏休みになりました。
私はカースティンにどうしても広島の原爆記念館を見せたいと思いました。
次女と二人で京都ー広島ー福岡の日本縦断の旅をさせました。
京都には私の叔母の家にお世話になり、従兄弟に京都市内を案内してもらいました。
福岡では夫の実家に泊めてもらいました。
夫の義兄夫婦は車で阿蘇山はじめ九州の主な観光地を案内してくれました。

広島の原爆記念館の見学はやはりかなり衝撃をうけたようでした。
帰ってきたカースティンは日本語のカードをくれました。
「お母さん ありがとうございました。とても楽しい旅行でした。広島のことも一生忘れないです。」と漢字も混じったカードをくれました。
次女も通訳をかねての旅でしたが原爆記念館は始めほとんどが始めて経験でよい旅行になったと思います。

さて、横田基地に住むカースティンの実のお父さんと連絡が取れました。お父さんは横田基地の中にある高校の音楽教師をしていて夏休みに我が家を訪ねて来ることになりました。
大きな車で家族三人でやってきました。
お父さんはカースティンによく似て色白の小柄な方でした。
再婚相手の奥さんも小柄な方でかなりお父さんより若い方です。多分初婚の方だと思います。ふたりの間に3才になる男の子がいました。
カースティンはお父さんが大好きだったようで両親の離婚はかなりショックだったと後で聞きました。
父親とうれしそうに日本での生活の報告をしていました。
アメリカにいるときから父親の新しい奥さんとは交流があったようです。
普通の親戚のように接していました。
3才の男の子は皆で「CJ」−「シーゼェー」と読んでいました。名前と苗字の頭文字をとった呼び名です。
頭の毛が金髪でくるくる巻いているのです。大きな目は青い色をしていました。その可愛いことったら。
まるでお人形さんのようでした。私はたちまちシーゼーの虜になってしまいました。
カースティンもこの弟が可愛くてたまらないようでした。
でも男の子です。少しもじっとしていないのです。一日中家の中を飛び回って階段も上ったり下りたりじっとしていません。
怪我をさせてはいけないと神経を使いました。
それで私はそのころ子供たちに人気になっていた私も大好きなアニメの「トトロ」を見せてみました。
ビデオをテレビの画面に映し、日本語のアニメなので私の膝に載せて時々簡単な英語の解説をしながら見せました。
大成功。シーゼーはとても気にいったようで「ワンスモアー」といって何度も続けてみたがりました。
たしか始めは三回もみたと思います。
あきることなく我が家に滞在中何度も見ていました。やっぱり名作は凄いですね。
「トトロ」を見ている間安心して若い奥さんと一緒に家事に取り組むことができました。

若い奥さんは横田基地での生活を話してくれました。日本人との積極的な交流のためにお茶とお花を習っているとか。日本語の勉強もしているとかでとても魅力的な女性でした。

この一家とはその後、カースティンが帰国してもしばらく交流が続きました。
私たちが横田基地のお宅へ訪ねていったり、長女の結婚披露宴の時に一家で出席をお願いしてお父さんにはトラッペットを吹いていただいたりしました。

カースティンが帰国して二年目に私と次女と三女の三人でオレゴンのお宅に遊びに行った時、すでにアメリカに帰国していたお父さんの一家が私たちに会うために訪ねてきました。
日本人の感覚としてはびっくりです。カースティンのお母さんとこの若い奥さんとはとても中の良い姉妹のように接していてシーゼーは孫のようにみんなで可愛がっているのでした。
離婚再婚どうしの拡大家族なのですね。日本ではこんな風には中々いきませんよね。

この一家とはその後の交流は途絶えてしまいましたがシーゼーはもう29才になっているはずです。
どんな大人になってどうしているのかと今懐かしく思いだしています。

またなんと、秋になってカースティンの母方の祖父母がツアーで日本旅行にやってきました。東京のホテルで交流会をすることにしました。
その様子は次回のブログで報告します。



 

| 今村 洋子 | - | 12:25 | comments(1) | trackbacks(0) |
自分史 56   高校留学生カーステインと暮らした1年
  
      ビニールハウスの中のべコニヤー冬が越せるかな?

 カーステインはAFS協会の交換留学生としてやってきました。
この協会は高校生の交換留学を中心に40カ国以上の国際交流を行っている団体です。
この協会からカースティンは月々7000円のお小遣いが支給されていました。
その他の必要経費は全て我が家で負担するのです。

カースティの家はアメリカのオレゴン州のユージーンです。
家族は弟と両親の4人ですが、父親は母の再婚相手です。
実の父親は新しい家族と一緒に横田基地に音楽教師として勤めていました。
やがて私たちは二つの家族と交流することになるのです。

彼女はスラッとした細身でアメリカ人としては背は低く小柄のほうでした。金髪で色白のフランス人形のように綺麗な女の子でした。ルーツはフランスではなく母方と父方の祖父母はスエーデンからの移民です。北欧美人だったのです。

彼女は大げさなジェスチャーをするアメリカ人とは違って、大人しく内気な性質で小さい声でぼそぼそと英語を話すのです。
私には何を言ってるのかさっぱり聞き取れません。
その言葉を次女は聞き取れてすぐ英語で話しが出来るのにはびっくりしました。
次女の通訳でカースティンとの生活はスムーズに出発しました。
空いている二階の一部屋をカースティンの部屋に使ってもらいました。荷物が沢山アメリカから届きました。その中にフルートが入っていました。高校生なのにお化粧道具も入っていました。

綺麗なアメリカの少女が我が家で暮らすようになったという噂はたちまち地域に広がりました。
学校がはじまるまでに色んな経験をしました。地域のお祭りでは獅子舞いを楽しんみ、お雛さまを飾っている家に食事の招待を受けお雛さまを見せてもらいました。

また、この地域で暮らしているアメリカ人がいきなり訪ねてきました。尺八を作っているポールさん。30才くらいの男性です。そこに居候していた20代の青年チャールス。カースティンのフルートとポールの尺八とチャールズのギターの合奏を楽しみました。
彼女がいる間彼らは何回も訪ねてきました。我が家は国際交流の賑やかな家になりました。

学校が始まると私は二人分の弁当を作って持たせました。
家から学校まで歩いて30分かかります。朝寝坊の二人を起こし送り出すのが大変でした。
カースティンは三ヶ月間はマンツーマンで日本語の勉強です。
本当に三ヶ月たつと日本語を話せるようになって私とのコミュニケーションがとれるようになりました。
私といえば全然カースティンの英語は聞き取れず、とうとう一度も英語ではなしたことはありませんでした。
英会話の勉強なんてとんでもなかったのです。ハハハー。

日本に居るうちに出来るだけ日本の各地を旅行させたいと思い、5月の連休には鎌倉旅行に連れていきました。
また、私の職場の仲間との登山に誘うと行くというのです。登り4時間のきつい中央アルプスを一緒に登りました。
彼女も出来るだけいろいろな経験をしたいと思っているようでどんな誘いにも乗ってきました。
以外に芯はしっかりした頭の良い女の子だと気がつきました。
段々私との日本語の話しが弾むようになり私のことを「お母さん」と呼んでくれるようになりました。
娘が一人増えたようで嬉しかったです。
| 今村 洋子 | - | 17:32 | comments(1) | trackbacks(0) |
自分史 55 夫の単身赴任で家庭生活に変化

  
       今年の紅葉はいまいちでしたー富士見台高原にて

  昭和56年、夫は41才私は39才になりました。この年家庭生活に大きな変化がおきました。
夫が長野県高等学校教職員組合の書記長に選ばれ長野市に単身赴任することになりました。
5年間の出向ということで5年だけ頑張れば又一緒に暮らせるのだからとわりと気楽な気持ちで夫を送り出したのでした。

4年後に夫がすい臓癌になってあっという間に亡くなってしまうのです。再び一緒に暮らすことはありませんでした。
組合活動のストレスと喫煙と野菜の少ない外食ばかりの生活が夫の命を奪ったのだと思います。
こんなことになろうとは夢にも思わず気楽に単身赴任として送り出したことが無念でなりません。
私が一緒に付いていき食事などちゃんとしていたらこんな病気にはならなかったのないかとかいや教師の仕事が好きだったのだから組合の役員の就任に反対したら良かったのだとか色々考えて悔やんだのでした。

夫が長野市に住んでいたのは2年間だけでした。その後夫は日本全国高等学校教職員組合の書記長に選ばれ東京に赴任していきました。

夫が長野に住んでるとき私は三人の子供たちを自家用車に乗せてよく長野の夫のところへ行きました。
当時は伊那までしか高速道路が通っていないので高速道路を下りた後は松本市の市街地を通り抜けくねくね曲がった国道19号線を通り5時間くらいかかって長野市までいきました。
車の中での子供たちとのお喋りはとても楽しいものでした。八坂村を通る時は「キャー八墓村だー」と言いながらキャーキャーいって通ったものです。
長野では夫と長野市近辺の飯綱高原や戸隠や野尻湖などのドライブを楽しんだり、冬は沢山あるスキー場にも行きました。
飯田に帰ってくる時は同じ道はつまらないからと白馬村のほうを廻り青木湖をみながら大町市を通ってドライブを楽しみました。
そんな訳で私にとって長野県は大きな私の庭のような親しみを持つようになりました。

夫の東京行きが決まった年、長女が現役で津田塾大学に合格し、次女が地域の進学校の飯田高校に合格しました。夫はよほど嬉しかったようです。
夫の提案で写真館で家族全員で写真を撮っています。今では家族みんなで撮ったちゃんとした写真はそれ一つだけでとても良い思い出の写真となっています。
でも娘たちは皆ブスッとした顔であまり嬉しそうにはしていません。夫は娘たちの服装について独自の価値観を押し付けていました。
紺色か鼠色のブレザースーツに白い靴下と黒い靴。みんなそんな服装をしています。それぞれが反抗期に入っていました。その頃女の子はフリフリのついたスカートなどがはやっていてそんな服装に憧れていたのでした。

経済を考えて夫と長女が一緒に暮らすことになり長女の大学の近くにマンションを借りて二人の生活が始まりました。
長女にとっては親からの自立の時期に服装や色々な行動に口を挟む夫との同居は不本意だったようですが夫は全国の県支部へ出かけることが多くほとんど留守がちだったのです。

飯田では次女と三女の三人暮らしはぽっかり穴があいたような寂しい毎日でした。
そんなある日、次女の通う飯田高校でアメリカの少女の留学生を一年間受け入れたいので、ホームステイとして受け入れてくれないかと相談がありました。
部屋も空いているしちょうど寂しくなった所なので受け入れることにしました。
すこし私も英会話ができるようになれば良いなとの思いもありました。

平成59年の3月の末、ボランテアの女子大学生に連れられてカースティンが飯田駅に降り立ちました。
色の白いとても美しい少女でした。しばらく見とれてしまいました。こんな美しい少女と一年間一緒に暮らせるのだと嬉しさがこみ上げてきました。




 

| 今村 洋子 | - | 07:22 | comments(3) | trackbacks(0) |
自分史54   継続看護に取り組んだ看護協会地区支部長時代
  
          白馬三山ー唐松岳登山の途中で撮影しました

  昭和57年「老人保健法」が施行され医療界が大きく転換期を向かえていました。
高齢化が進み医療は必要ないけど介護の必要な老人の社会的入院が医療費の高騰をきたしていると社会問題になってきました。
診療報酬はピタッと上がらなくなり、無料だった老人医療費が一部負担の有料になりました。
政府はあの手この手で医療費を抑えようとしてきました。

看護界では「継続看護」の取り組みを推進してきて、「継続看護」を取り組まないのは看護ではないというくらいの勢いでした。
今までの病院では退院していく患者さんに対して在宅でどうしているのか関心をもつことがありませんでした。
しかし、退院していく患者さんのご家族への介護指導や保健婦と連携をもつ「継続看護」が大切だということになってきたのでした。

それは老人の社会的入院を減らし、在宅介護を推し進める前哨戦だったのです。
そんな時私は飯田下伊那地域を統括する看護協会の地区支部長に選ばれ、一期〔二年間〕勤めました。
私は継続看護委員会を作りその委員を中心に市民対象に「家庭看護教室」を何回か開催しました。
オムツのあて方とか寝たきりの人の清拭や洗髪の仕方などを教えました。
老人と同居している多くの婦人が参加してくれ大変喜ばれました。

その「家庭看護教室」を中心になって開催してくれたのは当時飯田市立病院の病棟婦長さんだった小池瑠美子さんでした。
10年後に訪問看護ステーションの開設のお手伝いをしていただくことになったのですが、その時はそんなことになるとは夢にも思いませんでした。

そのころ、私はとてもショッキングな体験をしています。
病院の理事の母親が老衰で自宅で終末を迎えていました。98才という高齢なため自宅での看取りを選択していました。
その理事から母親が背中に床ずれができているので包帯交換に着て欲しいとの依頼がありました。当時訪問看護は診療報酬に反映されていませんでしたのでボランテア訪問になるのですが、理事のお宅なので私が訪問することになりました。
訪問すると部屋全体に凄い悪臭がしていました。母親は畳の上の布団にねていました。
横にして背中を開けると肩の肩甲骨からお尻まで皮膚が真っ黒に壊死になっていてその下は膿の海のような状態になつていました。
寝巻も浸出液でびっしょり、敷布団も湿っていて畳まで湿っていました。
寝たきりの人がいると畳が抜けるという話を聞いていましたが、まさにそんな状況でした。
なすすべもなく私はただ背中にバスタオルをあてるだけでした。その母親はそれから二日後にお亡くなりになりました。介護するご家族が体位交換や清拭の仕方を知っていたらあのような酷い状態になることはなかったのではと無念な思いになり何時までも忘れられませんでした。

在宅介護の家族指導や訪問看護の必要を思ったのでした。
当時東京の一部の病院でボランテアでの訪問看護の取り組みが始まっていました。
| 今村 洋子 | - | 17:37 | comments(1) | trackbacks(0) |
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< January 2012 >>
おしゃべり広場掲示板
≪おしゃべり広場−入口−≫
掲示板への書き込みは現在休止しておりますが、過去の記事はご覧いただけます。洋子さんへのメッセージ、ご質問はブログのコメント欄へお願いいたします。
アウトリーチから
≪あなたもブログをつくりませんか≫ 今話題のニューメディア、ブログで情報発信したいけれど…、「技術的に自信がない、時間の余裕がなくて管理ができない」という方に、アウトリーチがブログ作製・管理のお手伝いをいたします。まずはメールで気軽にお問い合わせください。
【メールはこちらをクリック!】

『チャレンジドZAKKYのバリアフリー探検記!』
アウトリーチの当事者スタッフが書いているブログです。彼女が皆さまのブログをサポートします。


bolg index このページの先頭へ